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幸福な王子

はじめに

まず第一に、ワタシが翻訳する対象の作品はワタシの作品ではありません。翻訳するにあたり、自分に強く言い聞かせていることは、
「これはワタシの作品ちゃう。作者の芸術作品や。だからそれをワタシの言葉で汚してはいけない。それは冒涜行為や。」
ということです。

だからワタシは「なるべく盛らず」、「装飾せず」、作者の呼吸や温度、登場人物達の心の動きや状態を、作者の文章を守りつつ、日本語で表現するよう最大の注意を払うよう努めています。英語で書かれた作者のたった一行、ひと言に込めたものを壊したくない。

Oscar Wildeの文章は、見かけは驚くほどシンプルです。短いセンテンス、簡単な語彙、今回ワタシが選んだThe Happy Princeは童話形式で書かれています。ですが、その奥には必ずと言っていいほど複数のレイヤーが潜んでいます。
「シンプルな文章ほど恐ろしく難しい。」
それを改めて思い知らされました。

今回、”The Happy Prince”を訳しながら何度も立ち止まりました。たった一つの単語、”heart”や”dream”, さらには”will”にさえ隠された深い意味、Wildeは恐ろしくシンプルな語彙の中に感情や思想、皮肉や社会階級など忍ばせ、読み手に対し
「見つけられるものなら、どうぞ見つけてごらんなさい。— 驚いたふりくらいはして差し上げましょう。」
と静かに挑んでくる偉大な”コトバの芸術家”です。

今回のWildeの翻訳にあたり、次の3つをゴールデン・ルールとしました。
・シンプルな原文に潜む複雑さを、必要以上に脚色したり、注釈を加えず最大限伝えること
・単語の2重の意味や比喩、作者の意図に気づき、拾い上げ、尊重すること
・英語のリズムと呼吸を、可能な限り日本語に継承させること

さらに、登場人物達を観察し、声を聞き、—王子の静かな高貴さ、つばめの軽やかさから深い愛情に至る変化など— それをどう日本語で発話させるかにも細心の注意を払いました。文学作品の翻訳とは、ただの言葉の置き換えではなく、作者の声を一度自分の心で受け取って感じ、そして別の言語でいいい直すことである。ワタシはそう思っています。

「Wildeは強烈や!天才や!またやられた!」と叫び、時には泣き、時にはほくそ笑みつつ、この訳文を完成させました。物語の解釈は、個人によって異なり、また、読む時の気分、年齢により変わるものです。これはワタシの解釈版ではありますが、これをきっかけに、Oscar Wildeの作品世界に興味をもっていただければ・・・と思う次第です。

オリジナルの英語原文である『幸福な王子』と、付随する挿絵は、パブリックドメインとして提供されているプロジェクト・グーテンベルクのデジタルアーカイブから引用しています。
Motoko Millum
November, 2025

キャラクター・ヴォイス・プロファイル

作品に登場する主要なキャラクターの話し方、感情のトーン、そして使用する語彙や文体に関する一貫したガイドライン。「このキャラクターがこのセリフを言う時、日本語としてどういう語彙や文体を当てるべきか」を決定する羅針盤。

幸福な王子

本質: 生前は「美」に囲まれた存在で、世界の痛みに無知。死後初めて他者の「苦しみ」を知り、「痛みを取り除こうとする存在」へと転身した慈悲の化身。高貴だが高慢ではなく、静かな哀しみと深い愛情を持つ魂。キーワードは「静」

声の質: 穏やかで静か。音楽的。感情の波は激しくないが、奥深くには熱と哀しみ。命令でも、支配でもなく、願いや祈りの響き

翻訳の方向性: 「威厳」より、「静かな高貴さ」と「悲哀の透明感」。王子であっても古語化しない。日本語の語尾は丁寧で平板、感情の波はマイクロスポット的に使用

つばめ

本質: 自由奔放で軽やか。思い込みは強いが、根は優しい。周りくどいものは嫌い、実直。階級とは無縁。存在も知らない。自由を愛する鳥が、「献身」へ変化する。キーワードは「動」

声の質: テンポは早く、明るく、リズミカル。子供っぽいワクワク感。口語

翻訳の方向性: 「〜なんだよ」や「〜よぉ」など、感情表現として使用。死ぬ直前の短いフレーズは重要。過剰にドラマ化しない

市長

本質: 自己陶酔、虚栄心、権力の模倣者。自分を中心に世界が回っている。悪人ではないが、愚かさの象徴として機能

声の質: 芝居掛かっている。モデルはThe Hobbitに登場する、Stephan Fry演じるLake Cityの市長。「条文風」の言い回し

翻訳の方向性: 荘重と見せかけ、中身は空っぽ。それを出すために言い回しは固め。コメディキャラクターのように扱わない。古い日本語表現を使うことにより、ドライな皮肉として響かせる

市議会議員たち

本質: 主体性ゼロ、思考停止、金魚のフン。自己判断能力ゼロ=権力者の鏡。各自のエゴにより市長に反旗を翻す。どうでもいいことを延々と議論できる体力あり

声の質: 合唱団。おうむ返し

翻訳の方向性: 意図的に単純な構文、短文を使用。社会風刺の一部としての機能、感情は伴わない。市長同様、コメディキャラクターとして扱わない

芸術学部の教授

本質: 見かけだけの美しさで判断=浅い芸術的センス。芸術家ではなく学者。美の喪失=存在価値の消失というロジック

声の質: 知識人風のスマート&冷淡な言い回し

翻訳の方向性: 市議会議員たちのような市長のYes-manではない。ドライ

神様

声の質: 絶対的正義。的確な言葉遣い。道徳的判断としての声

翻訳の方向性: あくまでも登場人物の一人として扱う。Wildeは神様を特定の宗教的な教えとして使っていない=特定の宗教的語彙(エデンの園など)は使用しない

翻訳ノート - 翻訳中の思考プロセス

Heart: 鉛の心臓 vs 心

大前提として、英語のHeartは「心臓」と「心」両方の意味をとるが、日本語は別々の単語で表現される。これが問題。王子のLead Heartは、像が持つ鉛でできた「心臓」の意味だけではなく、「心」を意味するHeartでもあることに気づかなければ、つばめが死んだ時にまっぷたつに折れ、そのあとのものすごいドライな一文、”It certainly was a dreadfully hard frost.”と、溶鉱炉で全く溶けないといった不思議現象が繋がらない。

この時の”Lead Heart”は内蔵、物質としての心臓ではなく、心のHeartであるから、つばめが死んだ直後に折れたけれども、溶鉱炉では、あたかもHeart自体が溶かされていることを拒否しているかの如く溶けなかった(It will not melt)ということが綺麗に流れる。そして、王子のセリフ”though my heart is made of lead yet I cannot chose but weep.”は、王子の心臓は鉛というとても冷たい物質でできている+(冷たい心臓を持っていても)他者の痛みを感じる温かい心があるということ。なので、王子には「ハート」という言葉を使わせなければならない。Wilde天才!

Dream: ふたつの夢

慈善学校の子どもたちが、王子の像を見て「天使みたいだ」というシーン。ここで、子どもたちのセリフ “Ah! but we have, in our DREAMS,”のdreamsと数学の先生の考えである”for he did not approve of DREAMING”は異なるDREAMを指す。子どもたちのDREAMSは、夜眠っている時に見るDREAM、数学の先生のDREAMINGは将来に対するDREAM。そう理解すると、ここでの数学教師のリアクションが理解できる。子どもたちは純粋さの象徴、数学教師は合理主義の象徴。そして、想像の自由を奪われた階級社会の象徴。Wildeの一つの「2重の意味をもつ一つの単語」の一つ。

Passion-flower: 強烈な対比

このプロジェクトでは、Passion-flowerの持つ象徴性が重要なので、「トケイソウ」とはせずに、「受難の花」とする。キリスト教では、Passion-flowerは「受難(passion) 」を意味する。そうすることで、Wildeの強烈な対比構造が浮き彫りになる。病に伏す少年の針子の母親は、病気の子供の世話もできないくらい「受難の花」の刺繍を一生懸命縫っている。その一方で、バルコニーで恋人と一緒にいる上流階級の娘は「受難の花の刺繍をお願いしたところの針子たちの手が遅い」と不満をこぼす。

このバルコニーの娘と、母親がせっせと縫っているガウンの持ち主は同一人物(かもしれないが、バルコニーの娘は複数名詞 seamstressesと言っている。)と決めつけると、思考が別の方角へ向いてしまい、Wildeの意図を誤って理解することになる。ここは、「階級ゆえの無知・残酷さ」を描いており、決してバルコニーの娘を悪人として描いていない。2つの階級の対比を説明するために、母親のシーンで使った「受難の花」を、娘にも使わせる必要があったので、一度「トケイソウ」としようか考えたが、ここでも「受難の花」とした。母親にとっては「受難」、娘にとってはあくまでも「ファッション」。強烈な対比構造。

Embalm: 強烈な言葉からどう静寂をもたらすか

簡単に訳せば「死体の防腐処理/ミイラ化」になるが、「防腐処理」を使うと、露骨過ぎる+物語の持つ音楽のリズムを大きく壊ししまう。つばめが王子にエジプトってこんなとこなんだよと3回説明するシーンの1番目に”The King is there himself in his painted coffin. He is wrapped in yellow linen, and embalmed with spices.“ という文の中でembalmが出てくる。ファラオの体がembalmedということなので、意味を壊さず「防腐処理」をどう処理するか。ファラオの死の静寂も表現しなければならない。そこで、「守られている」という言葉を使い、「体は黄色いリネンに包まれて、香辛料で腐らないように守られてるんだ。」とした。

Pluck Out: 犠牲の代償

“Pluck out” は「激痛」の感覚を伴う。要は肉体からの切り離しのイメージなので、何かをpluck outするとか、されたとなると、体が条件反射する感じ。どこでこの単語がつかわれているか。王子がルビーはないから次は私の目「サファイア」を届けてほしいというシーン。”Pluck out one of them and take it to him. “ ただの「取る」では柔らかすぎて、王子の「本気」が伝わらない。「抉り取る」では音や雰囲気が重すぎる。でも残酷さは残さなければならない。痛みを伴っても他者を救おうとする王子の「自己犠牲」を表現するには、残酷さが必要。という理由で私は「引き抜く」とした。

The Happy Prince: 「幸福の王子」vs 「幸福な王子」

日本語では「幸福な王子」と「幸福の王子」の2種類で訳されているのがほとんどだと思うが、私は最後の最後まで、どちらをとるか悩んだ。言いやすさで言えば、「幸福の王子」になると思うが、一つ問題がある。

王子が”I am the Happy Prince”といったときに、つばめが”why are you weeping then?”と聞く。このthenの持つ意味は大きく、「幸せな(状態の)王子がなぜ泣いてるの?(=幸せだったら泣くことないんちゃうの?)」という驚きを表しているので、ここで、「幸福の王子」としてしまうと、この驚きの構造が機能しづらくなる(ツッコミ入れることに慣れている人は問題ないかもしれないけど)。なぜなら「幸福な王子」は幸せな状態にいる人に意味的なスポットがあたり、「幸福の王子」だと、ただの固有名詞となってしまう。

人々は王子を”the Happy Prince”と呼んだが、王子は涙がなんなのかは全く知らなかった。というまさに、”Ignorance is bliss”の世界に生きていた。たかが「な」、されど「な」。侮ってはいけない!Wildeが相手の時は特に!(でないと全てが崩壊する・・・)

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幸福な王子

オスカー・ワイルド・著
ミラム・モトコ・訳

街を見渡すほどの、ひときわ背の高い柱の上に、幸福な王子の像は立っていました。薄い金箔が王子の全身を覆い、瞳にはふたつの深く青く澄んだサファイアが埋め込まれ、剣の柄の上では大きな深紅のルビーがひっそりと輝いていました。

誰もが王子を称賛していました。「風見鶏のように見事だ」と、芸術通と思われたい市の議員のひとりは言いました。しかし、自分こそ役立たずであることをまったく知らずに、人々からそう思われることを恐れ、こう付け加えました。「まあ、何の役にも立たないが。」

「どうして幸福な王子様のようにできないの!」と、お月さまが欲しいと泣きじゃくる小さな男の子に、とても常識的なお母さんは言いました。「王子様はね、だだをこねるなんて夢にも思わないの!」

「この世界に、幸せそうな人がいてよかった。」と、望みを失った男は、この見事な像を眺めてつぶやきました。

「天使みたいだ・・・」と、明るいスカーレット色のマントと真っ白なピナフォアを身につけた慈善学校の子供たちが、大聖堂を出ながら口々に言いました。

「なぜ分かる?」と、数学の先生は言いました。「天使を見たことがないだろう。」

「あります!夢の中で!」と、子供たちは答えました。数学の先生は深く眉間に皺を寄せ、子供たちが夢を見るなんてとんでもないと、厳しい表情をあらわにしました。

ある晩、一羽のつばめが街の空を飛んでいました。つばめの友達はみな6週間も前にエジプトへ旅だちましたが、彼だけ後に残っていました。世界で一番美しい葦に恋をしていたのです。つばめがその葦に出会ったのは初春の頃でした。大きな黄色い蛾を追いかけながら、川の上を飛んでいると、彼女のほっそりとした腰つきに心を奪われ、声をかけずにはいられなかったのです。

「君に恋してもいい?」と回りくどいことが大の苦手なつばめは言い、葦は深いお辞儀でその言葉に答えました。彼は彼女の周りを何度も円を描くように飛び回り、翼で水面に触れて、銀色の波紋を描きました。これは彼の求愛のしるしで、夏の間中続いたのです。

「君のその恋には、無理があるよ。」と他のつばめたちはさえずりました。「彼女はお金もないし、第一、親戚の数が多すぎる!」実際、川辺はたくさんの葦でいっぱいだったのです。そうして秋がやってくると、みんなは飛び立っていきました。

みんなが飛び立ったあと、つばめは寂しくなりました。恋人の葦をだんだん疑うようになりました。「彼女は全然おしゃべりしない。」と彼は言いました。「こんなこと言うには気がひけるけど、気が多いタイプだ。いつも風といちゃついてるんだから。」確かに、風が吹くたび、葦は世界で最も優美なお辞儀をして見せたのです。「家にいるのが好きなのは認める。」彼は続けました。「でも僕は旅が好き。だから僕の奥さんも旅好きでなきゃ困る。」

「僕と一緒に来てくれる?」とうとう彼は葦に尋ねました。しかし葦は首を横に振りました。彼女は自分の家に深く根を下ろしていたのです。

「僕のこと、ずっとからっかったりして…ひどいよ!」と、つばめは叫びました。「僕はピラミッドへ飛ぶ。バイバイ!」そうして彼は飛去っていきました。

一日中つばめは飛び続け、夜になって街に到着しました。「どこで休もうかな…」彼はつぶやきました。「もちろん、僕のために用意されてると思うけど。」

そういいながら飛んでいると、背の高い柱の上に立つ像に目が止まりました。

「あそこで休もう!」彼は叫びました。「なかなかいい場所だ。新鮮な空気がたくさんあって。」そう言うと、幸福な王子の足もとにそっととまりました。

「僕のベッドルームは金色だぁ。」周りを見渡しながら、つばめは静かに呟きました。眠る支度を整え、ちょうど翼の下に頭を休めようとしたその瞬間、大きな水の粒がぽたりと落ちてきたのです。「どうなってるんだ?」彼は叫びました。「空には雲一つないし、星はきらきらと輝いている。なのに雨が降ってくるなんて。北ヨーロッパの天気は意味がわからない。葦は雨が好きだったけど、あれは単なるわがままだ。」

ぽちゃん、またひとつ粒が落ちてきました。

「像が雨よけにならなかったら意味ないじゃないか。」彼は言いました。「ベッドにぴったりな煙突探さなきゃ。」そうして飛び立つことにしたのです。

しかし、彼が翼を広げるより先に、三つ目の水の粒が落ちてきました。つばめがふと見上げると・・・あぁ!彼が見たものは…?

幸福な王子の瞳は涙で溢れ、涙はゴールドの頬を伝ってはらはらと止めどなく流れ落ちていました。顔は月明かりの中に息を呑むほど美しく、小さなつばめの心は憐れみでいっぱいになりました。

「君は誰?」

「私は幸福な王子。」

「なのになんでしくしく泣いてるの?」と、つばめは尋ねました。「君のおかげでびしょ濡れだ。」

「まだ私が生きて、人間のハートを持っていた頃、」その像は答えました。「私は涙が何かを知らなかった。私が住んだサン・スシ宮殿に、悲しみを持ち込むことは許されなかったから。昼間は宮廷の友人たちと庭で楽しみ、夜はグレート・ホールで舞踏のリードを取った。庭は非常に高い壁で囲われていたが、その壁の向こうに何があるのか、誰かに聞こうなんて気は一切起こらなかった。美が私を囲っていた。宮廷人達は私を幸福な王子と呼び、実際幸せだったーもし快楽が幸福であるならば。私は生き、そして死んだ。死んだ今、このとても高い位置に立たされ、自分の街のあらゆる醜さや不幸の全てを見ている。私のハートは冷たい鉛でできているが、泣かずにはいられないんだ。」

「えっ!金の塊でできてるんじゃないの?」心の中でつばめはつぶやきました。声に出すにはさすがに失礼だと思ったのです。

「遠くの、」その像は低く音楽のような声で続けました。「あの遠くの小さな通りに、一軒の貧しい家が建っている。一枚窓が開いていて、その窓からテーブルに向かって座っている女性が見える。彼女の顔は痩せこけ、手は縫い針が刺さったせいで、荒れて真っ赤になっている。彼女は針子だ。女王付きの一番美しい娘が次の舞踏会で着るサテンのガウンに、受難の花の刺繍をほどこしている。部屋の隅のベッドで彼女の小さな息子が病で横たわっている。熱がありオレンジが食べたいと泣いているが、母親に与えられるのは川の水だけ。つばめ、つばめ、つばめさん、私の剣の柄で輝いているルビーを、あの母親に届けてもらえないか。私の足は、この台座に固く打ち付けられ動けない。」

「僕にはエジプトで待ってくれている友達がいるんだ。」と、つばめは言いました。「友達はナイル川を飛び回り、大きな蓮の花とおしゃべりしてるんだ。もうすぐファラオのお墓で眠る時間だよ。ファラオも彩られた棺の中で眠っている。体は黄色いリネンに包まれて、香辛料で腐らないように守られてるんだ。首には薄い翡翠色のチェーンをかけて、手は枯れた木の葉みたいにしおれてるんだよ。」

「つばめ、つばめ、つばめさん、」王子は言いました。「もう一晩一緒にいて、私のメッセンジャーになってくれないか。少年はとても喉が渇き、母親はひどく悲しんでいる。」

「僕、男の子たちってあんまり好きじゃないんだ。」と、つばめは答えました。「去年の夏、川に住んでいた頃、お行儀の悪い二人の男の子がいたんだ。粉屋さんとこの息子だよ。いっつも僕に向かって石を投げてきたんだ。当たらなかったけどね、もちろん。僕たちつばめを石で落とすなんてできっこないし、その上僕は俊敏さで有名な一族出身だからね。それでも、石を投げてくるなんてとんでもなく失礼だ。」

そう答えたものの、幸福な王子があまりにも悲しそうな顔をしていたので、小さなつばめの胸はとても痛みました。「ここはすごく寒いけど…」と、彼は言いました。「でも、一晩だけなら一緒にいてあげる。君のメッセンジャーになってあげるよ。」

「ありがとう、つばめさん。」と、王子は言いました。

つばめは王子の剣から大きなルビーをそっと取り外し、くちばしに咥え、街の屋根の上を飛んで行きました。つばめは、白い大理石の天使が刻まれた大聖堂の塔を飛び過ぎ、そして宮殿を飛びかすめると、舞踏会の華やかな響きが聞こえてきました。美しい娘が恋人と一緒にバルコニーへ姿を現し、恋人は彼女に向かって声高らかに言いました。「あぁ、なんと星は美しいのだろう、」「そして、愛の力 は何と偉大なことか!」

「わたしのドレス、次の宮廷舞踏会までに間に合うかしら。」と彼女は答えました。「受難の花の刺繍をするよう頼んでおいたのだけど、あの針子たちったらとても仕事が遅いのよ。」

つばめが川の上を飛んでいると、船のマストに吊るされたランタンが目に入りました。ゲットーの空を通りかかると、年老いたユダヤ人たちが、商談をしながら銅の秤でお金を量り分けている様子が見えました。そうしてついにあの貧しい家に辿り着き、中を覗き込むと、あの男の子はベッドの中で熱にうなされもがき、母親は疲れ果てて眠り込んでいました。つばめはぴょんと家の中に入ると、王子のルビーをテーブルにある指抜きの横にそっとおきました。そして、ベッドの周りを静かに飛び回り、 男の子のおでこを翼でやさしくあおいであげました。「涼しくて気持ちいい」男の子はつぶやきました。「きっと良くなってきてるんだ。」そう言うと、とても心地よい眠りに落ちていきました。

そうしてつばめは幸福な王子の元へ戻ってくると、一部始終を報告しました。「不思議だね。」と、彼は言いました。「こんなに寒いのに、なんだかとても暖かく感じる。」

「君が良い行いをしたからだよ。」と、王子は言いました。小さなつばめは考え始めましたが、やがて眠ってしまいました。つばめは考えるといつも眠くなってしまうのです。

朝になり、つばめは川へ行き水浴びをしました。「驚くべき現象だ!」と橋を渡りながら鳥類学の教授は大きな声で言いました。「冬にツバメがいるとは!」そして、地元新聞社に冬のツバメについて長々とした手紙を書きました。人々はその手紙をこぞって引用しましたが、その手紙には彼らには理解できない難しい言葉がぎっしり詰まっていました。

「今晩エジプトへ飛び立つんだ。」と、つばめは言い、とてもワクワクしていました。街じゅうの記念碑を巡り、教会の尖塔のてっぺんに長い時間座っていました。行く先々ではすずめ達がちゅんちゅんと「なんて洗練された旅のおかたなんだ!」と互いに囀りあっていました。そういうわけで、つばめはとても楽しい時間を過ごしたのです。

月が昇るとつばめは幸福な王子の元へ戻って来ました。「エジプトに何かお届けして欲しいものはある?」彼ははずんだ声で言いました。「もう出発するんだ。」

「つばめ、つばめ、つばめさん、」と、王子は言いました。「もう一晩一緒にいて、私のメッセンジャーになってくれないか。」

「エジプトで友達が待ってるんだよぉ、」と、つばめは言いました。「僕の友達は明日、第二急流へ飛んでいくんだ。そこでは、パピルスの茂みの中でカバ達が寝そべり、大きな花崗岩の王座にはメムノンの巨像が座ってる。一晩中彼は星を見つめ、明けの明星が輝くと、歓びの叫び声をひとつ上げ、そしてまた静かになるんだ。お昼頃には黄色いライオン達が水辺に喉を潤しにやって来る。ライオンの目って緑柱石みたいなんだよ。唸り声はね、滝の音よりもずっと大きいんだ。」

「つばめ、つばめ、つばめさん、」と、王子は言いました。「街のずっと向こうの屋根裏部屋に、若者が見える。紙があふれた机に伏し、側にあるタンブラーの中で、束になったすみれがしおれている。彼の髪は茶色く波打ち、 唇はザクロのように赤く、大きく夢見るような目をしている。劇場監督に渡す芝居を書き上げようとしているが、寒さで凍え、もうペンが進まない。暖炉に火はなく、空腹のあまりひどく弱っている。」

「もう一晩だけ、出発を遅らせてあげる。」と、とても優しい心を持ったつばめは言いました。「別のルビーを届ければいい?」

「残念だが、もうルビーは残っていない。」と、王子は言いました。「今の私に残されているのは、この二つの目だけ。私の両目は一千年前にインドから持ち込まれた貴重なサファイアでできている。一つを引き抜き彼に届けてくれないか。そうすればそれを宝石商に売り、食料と薪を買い、そして芝居を書き終えるだろう。」

「王子..、僕にはそんなことできないよぉ。」つばめはそういうとしくしく泣き始めました。

「つばめ、つばめ、つばめさん」と、王子は言いました。「私の言うことを聞いてくれ。」

つばめは王子の目を引き抜き、あの書生の屋根裏部屋へ飛んで行きました。屋根裏へ入ることはさほど難しくありませんでした。屋根に穴が空いていたからです。つばめはその穴をすばやく通り抜け、部屋の中へ入りました。青年は手で頭を抱え込んでいたので、つばめの羽ばたきは聞こえませんでした。 彼が顔を上げると、しおれたすみれの上に、美しいサファイアが置かれているのを見つけました。

「僕の才能が認められてきたんだ!」と、彼は大きな声で叫びました。「これは熱心なファンからに違いない。芝居を書き上げられるぞ!」彼は本当に幸せそうでした。

翌日、つばめは港へやって来ました。大型船のマストに止まり、船乗りたちがロープを力いっぱい引き、船倉から大きな木箱を引き上げているのを眺めていました。「オーエス!」箱が持ち上がる度に船乗りたちは声を張り上げました。「僕エジプトに行くんだ!」と、つばめは大声で叫びましたが、誰も気に止めませんでした。そして月が昇ると幸福な王子の元へ戻って来ました。

「さよならを言いに来たんだ。」と、つばめは声を震わせて言いました。

「つばめ、つばめ、つばめさん」と、王子は言いました。「もう一晩、私と一緒にいてくれないか。」

「ここは冬だよ..」と、つばめは答えました。「もうすぐ冷たい雪も降る。エジプトの太陽は緑の椰子の上でとても暖かいんだ。クロコダイル達は泥の上に寝そべって、のんびりと周りを見てる。ピンクと白の鳩達は、僕の友達がバールベック神殿に巣を作っているのを見ながらクークーおしゃべりしてる。ねぇ、王子、僕もう行かなきゃ。でも、君のことは絶対忘れない。次の春には、君があげちゃった二つの宝石の代わりを持って帰ってくる。赤いバラよりも赤いルビーと、広い海のように青いサファイアだよ。」

「下の広場に」と、幸福な王子は言いました。「小さなマッチ売りの少女が立っている。溝にマッチを落としてしまい、全てダメになった。いくらか稼いで帰らなければ、父親にぶたれてしまう。少女は泣いている。靴も靴下も履いていない、小さな頭には何もかぶっていない。 残っている私の目を引き抜き、あの子に届けてくれないか。そうすれば父親にぶたれずにすむだろう。」

「もう一晩、君と一緒にいる。」と、つばめは言いました。「でも、君の目を引き抜くのはダメだ。何も見えなくなっちゃうよ。」

「つばめ、つばめ、つばめさん」と、王子は言いました。「私の言うことを聞いてくれ。」

つばめは王子のもう片方の目を引き抜き、素早く下に降りて行きました。彼は少女の横をさっと横切りながら、王子の宝石を少女の手のひらに滑り込ませました。「綺麗なガラス!」大きな声でそういうと、少女は笑いながら、走って家に帰っていきました。

そうしてつばめは王子の元へ戻って来ました。「何も見えなくなっちゃったね。」と、つばめは言いました。「だから、ずっとそばにいるよ。」

「だめだ、つばめさん。」と、王子は言いました。「君はエジプトへ行かなければ。」

「ずっとそばにいる。」と、つばめは言い、王子の足元で眠りました。

翌日は一日中、つばめは王子の肩にとまり、不思議な土地で見てきたことを王子に語り聞かせていました。ナイル川の岸辺に長い列をつくり、くちばしで金魚を捕まえる赤いトキのこと、世界と同じほど古く、砂漠に住み、全てを知るスフィンクスのこと、ラクダの横をゆっくりと歩き、琥珀のビーズを手に持った商人のこと、黒檀のように黒く、大きなクリスタルを崇拝する月の山脈の王様のこと、椰子の木で眠り、20人の神官がはちみつケーキを運んでくる緑色の大蛇のこと、そして、大きな葉で大きな湖を渡り、いつも蝶々と戦っているピグミー族のことについて、話して聞かせました。

「つばめさん」、と王子は言いました。「君は信じられないような話を聞かせてくれたが、この世での一番の驚異は、人間の苦しみだ。不幸ほど深い謎は他に存在しない。私の街を飛んでくれないか、つばめさん、そして、君がそこで見たことを教えてくれないか。」

つばめは街の空を飛び、お金持ちが立派な家で浮かれ騒いでいる一方で、物乞いたちが門のそばに座り込んでいるのを見ました。つばめは暗い路地を飛び、白い顔をして飢えた子供たちが、黒い通りをぼんやりと見つめているのを見ました。橋のアーチ下には、二人の少年が寒さをしのごうと、抱き合って横になっているのを見ました。「お腹すいたね…」と、彼らは言いました。「ここで寝てはだめだ!」と見張り人が怒鳴り、そして二人の少年は、雨の中へ、とぼとぼと歩き出しました。

そうしてつばめは王子の元へ戻り、王子に彼の見たことを報告しました。

「私の体は薄い金箔で覆われている。」と、王子は言いました。「金箔を一枚ずつはがし、貧しい人たちに届けてくれないか。生きている人々は、ゴールドがあれば幸せだと思っている。」

つばめは王子がくすんで灰色になるまで、次々と金箔を剥ぎ取っていきました。一枚また一枚と、貧しい人たちに金箔を届け、子供達の顔はバラ色になり、そして通りで笑いながら遊びました。「僕たちにはパンがある!」と、大きな声で叫びました。

そうして雪の季節がやって来て、雪の後には霜も降りるようになりました。通りは銀でできているかのようにとても明るくキラキラと輝いていました。家々の軒先には、水晶の短剣のように氷柱がぶらさがり、人々は毛皮を着て歩き、小さな男の子達はスカーレット色の帽子をかぶって、氷の上でスケートをしました。

つばめはますます凍えていきましたが、王子のそばを離れることはありませんでした。王子のことを深すぎるほど愛していたのです。パン屋さんが見ていない隙に店先のパンくずを拾い、自分の翼をパタパタと震わせ、なんとか体を温めようとしました。

しかし、とうとうつばめは自分が死に近づいていることに気づきました。もう一度、王子の肩へ舞い上がるだけの力しか残されていませんでした。「さよなら、王子…。大好きだよ。」と、つぶやきました。「君の手にキスしてもいい?」

「ついにエジプトへ行くんだね、つばめさん。」と、王子は言いました。「君はここに長くいすぎた。手ではなく、私の唇にキスしてほしい。君のことを愛しているから。」

「僕が行くところはエジプトじゃないよ。」と、つばめは言いました。「死神の家へ行くんだ。死神は眠りの神の兄弟なんだよね?」

つばめは、幸福な王子の唇にキスをし、そして王子の足元へ落ちて、息絶えました。その瞬間、像の中であたかも何かが折れたような不思議な音がしたのです。実際に鉛のハートがパシッと鋭い音を立て、真っ二つに折れたのです。確かに身も凍るほどの厳しい寒さでした。

翌日の朝早く、市長は市議会議員たちを引き連れ街の広場を歩いていました。彼らが柱を通りかかると、市長は像を見上げて言いました。「なんてことだ!幸福な王子がみすぼらしい姿になっているぞ!」

「まったくなんてみすぼらしい!」と、市長に盲従する議員たちは声を上げ、像を見るため柱へ近づいて行きました。

「ルビーは剣から取れてしまっているし、両目は無くなっている。それにもう黄金ではない!」と、市長は言いました。「とどのつまり、物乞いと大して変わらん!」

「物乞いと大して変わらん!」と議員たちは声を揃えて言いました。

「実際足元で鳥が死んでおるじゃないか!」と、市長は続けました。「鳥類、ここで死ぬべからず、と条例を公布せねばならん。」書記官はその案をメモに取りました。

そうして彼らは、幸福な王子の像を引き倒しました。「王子から美しさが消えてしまった。もはや彼は何の役にも立ちません。」と、大学の芸術学部の教授は言いました。像を溶鉱炉で溶かし、市長は溶かされた金属の使い道について、市の執行部を召集し、方針会議を開きました。「もちろん、別の像を建立すべきだ。」と市長は言いました。「それは、このワシの像であるものとする。」

「ワタシのだ!」と議員一人一人が言い出し、口論になりました。私が最後に彼らのことを噂で聞いた時は、まだ同じことで揉めていました。

「奇妙なこともあるもんだ!」と鋳造所の監督者は言いました。「この折れた鉛の心臓は溶鉱炉ではどうやっても溶けない。もう捨てるしかないな。」そうして鉛の心臓を、死んだつばめが横たわるゴミの山へ投げました。

「この街で、最もかけがえのない二つの宝を、私のもとへ持ち帰りなさい。」と神様は天使の一人に申し付け、天使は鉛の心臓と死んだ鳥を持ち帰りました。

「正しい選択をしましたね。」と神様は言い、「楽園の庭で、この小鳥は永遠に歌い続け、黄金の都で幸福な王子は私をたたえるでしょう。」

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